カンニング竹山氏が、長年務めた報道番組からの「卒業」を宣言した。
「左翼だ右翼だと、適当になんでもかんでも言いやがって、てめー、このヤロー!」
SNSの批判に対し、抑えきれない憤りを爆発させた竹山氏。
一方で彼は、これまでの自身の言動を「テレビ局に求められた役割を演じてきただけだ」とし、「炎上は怖くないが、リスクしかない」と、ニュースの舞台から退く意向を示した。
この一連の弁を聞いて、あなたはどう感じただろうか。
一言で言えば、「役割を演じきれなかった者の、後ろ向きな負け惜しみ」である。
彼の言葉には、いくつかの齟齬が見て取れる。
まず、「テレビ局に求められてキレる役割を演じていた」と語りながら、SNSで「バカのくせに」などと書かれていたことに憤慨し、極めて個人的な感情を露わにして激昂している点である。
もし本当に、自らをプロフェッショナルな「駒」として定義し、仮面を被っていたのであれば、観客からの嘲罵はその仮面に対する評価に過ぎない。
役割と言い訳しながら、その実、不特定多数の視線という重圧に耐えきれず自我の安定を保てていない姿は、表現者としての内的な脆弱性を露呈している。
次に、「炎上は怖くない」と語りながら、「リスクしかないからニュースはやめる」と宣言する自己矛盾である。
さらに看過しがたいのは、「ゴゴスマは天気と大谷翔平だから続ける」と公言したことだ。
確かに、天気やスポーツといった話題は、比較的批判を受けにくい領域ではある。
火の粉を払う保身の術としては、ひとつの正解かもしれない。
だが、そうした安全な領域にのみ言葉を置くという選択は、意見を強く問われる場から距離を取り、己の発言を「誰にでも代えのきく無害なBGM」へと変質させる行為に他ならない。
国家や社会の根幹に関わる議論を「リスク」として放棄し、消費されやすい娯楽の陰に身を移すその姿は、一見賢い適応のように見えて、その実、表現者としての緊張を手放した単なる敗走である。
「卒業」とは、審判が下る前に幕を引くための言葉に過ぎない。
覚悟なき言葉は、いずれ己の喉を切り裂く。
#カンニング竹山